インタビューをしているとき、聞き手である僕の心の中には様々な感情が湧き上がる。それは共感だったり、疑問だったり、時には怒りだったりもする。
 
今回のインタビュー中、僕の心の中には、もう何年も忘れていた、もどかしくて、恥ずかしくて、思わず顔を覆いたくなるような青臭い感情が蘇る瞬間が何度もあった。青臭さというのは、他人事になれば客観視できるようになるものだと思っていたけれど、それはいつまで経っても青臭い。
 
三浦菜さんと宮谷友貴奈さん。ふたりは5歳のときにバレエスタジオで知り合った幼馴染で、函館市内の同じ高校に通い、4年前に上京。別々の大学に通いながらも地元にいた頃と変わらぬ付き合いを続けてきた。
 
そして22歳の春、ふたりは別々の道を歩き始めた。三浦さんはやり残したモデルやお芝居の仕事をするために東京に残り、宮谷さんは地元・函館のホテルに就職する。
 
「進路について相談したいことがあるんです。」というメールが三浦さんから届いたのは、今年2月のことだった。彼女の口からは、ごくごく自然に宮谷さんのことが語られ、僕はすぐに2人の話を聞いてみたくなった。共に函館で生まれ育ち、互いに唯一無二の親友と認め合うふたりは、それぞれの決断をどのように受け止めているのだろうと思ったのだ。それはきっと、別れを前にした〝今〟というタイミングでしか聞けない話になる。宮谷さんが函館に帰る直前の3月末、ふたりがよく訪れていたという吉祥寺でインタビューをさせてもらうことにした。
 
ふたりの話を聞いていて驚いたことがある。年齢が一回り以上も離れているにも関わらず、彼女たちの悩みや葛藤は、自分が同じくらいの歳の頃に抱えていたものと、とてもよく似ていたのだ。地方から出てきた大学生に与えられた4年間という時間。その先の岐路で待ち受けているのは、世代を超えた普遍的な悩みや葛藤なのかもしれない。
 
IN&OUTで初めての特集となる『22歳の決断』。これから岐路に立つ人にとっても、かつて同じような苦悩を抱えていた人にとっても、今の自分と向き合うきっかけとなれば嬉しいです。
 
文章:阿部 光平、写真、Webデザイン:馬場雄介 公開日:2018年10月10 
 
 



 
 

 
 
 
 
 

自分で考えることでしか手に入らない〝自分の言葉〟
 
 
 
 
 
━━東京の大学へ行くというのは、いつ頃決めたんですか?
 
宮谷:私はあまり東京に対する憧れとかはなかったんですけど、本当に流れみたいな感じで。どっちかといえば、私は専門学校とかに行くのかなーと思ってたんです。服飾関係とか、手に職つける系の。
そう思ってたんですけど、そもそも英語科には、指定校推薦で大学に行くっていう流れがあって、お母さんにも「大学行きなよ」って言われて、「大学って行く意味あるの? 4年も行って何するの?」って悩んでたんです。
 
三浦:私もまったく同じことを思ってました。
 
宮谷:うん。ふたりとも同じことで悩んでましたね。大して勉強も好きじゃなかったので、4年間も勉強するのは辛いなって。
でも、「行ったら見える世界が違うよ」って、お母さんに言われて、「あぁ、そうなのかー」って。きっかけは、そんな感じですね。私自身は本当にぽけーっとしていたので、流れに身を任せてました。
 
━━実際に東京へ来てみた印象はいかがでしたか?
 
宮谷:高校の3年間は周りにいい人しかいないっていうか、私に賛同してくれる人ばっかりだったので、敵がいない環境だったんですよ。言ってみたら、温室育ちというか。
だけど、こっちに来て初めて「こんなに意見が合わなくて辛い思いするんだ」っていう経験をして、ズタズタになったりしましたね。サークルにも入ってたんですけど、気が強いっていうか、強く感じるような人とか、言葉にトゲがあるなって人もたくさん現れて、「こんなにたくさんの考えや、人がいるんだ」っていうのがわかりました。だから、今になれば来てよかったなと思います。
 
━━お母さんが言っていたように、見える世界が変わったなと。
 
宮谷:そうですね。勉強するってことも、昔は本当に意味不明だと思ってたんですよね、本当にぽけーとしてたので。
大学に入ってからは言語学を専攻していたんですけど、それはすごく面白くて。学ぶっていうか、学問をするっていうことが面白いなぁと思うようになりました。そういう考えに辿り着けたから、大学で学んだ意義はあったのかなって。今は、学問をすることは贅沢だなと思っていて、そういう贅沢を親にさせてもらったんだなって実感しています。
 
━━全然「ぽけー」っとしてないじゃないですか。どれも、すごく大きな学びだと思います。
 
宮谷:そういうことを気づけたんで、少しはよかったですね。
 
 

 
 
━━宮谷さんは、大学を卒業後は函館に帰るということですが、それはずっと決めていたことだったんですか?
 
宮谷:大学を卒業したら、絶対に函館へ戻ろうと思ってました。
 
━━それは、なぜ?
 
宮谷:なんでだろう…。函館、大好きで。
住んでいたときは、欲しいモノがすぐに買えないとか、ネットで買っても送料がかかるとか、早く届かないとか、そういう悩みはありましたけど、何かが足りないくらいのことは別にいいかなって思うようになって。
 
━━「何かが足りないくらいのことは別にいい」。
 
宮谷:もう、函館の、あの景色があれば、他には何もいらいないみたいな。「それさえあれば、気持ちいいぜ!」みたいな感じなんですよね。
 
━━あぁ、それは他に替えがきかないものですね。
 
宮谷:東京では、都心から離れたところに住んでいたんですけど、都心部の大学に通ってたら潰れてたなと思います。人が多いところが苦手なので。傘が他の人とめっちゃぶつかるとか、いろいろと気を使わなきゃいけないじゃないですか。
 
━━じゃあ、東京の4年間はもう、知らない世界を覗きにいく社会見学みたいな。
 
宮谷:本当に、そんな感じでしたね。
就活を始めた頃は、「東京の大学まで出させてもらって、東京で就職しないっていうのは、親にとってはガッカリなんじゃないか? それは申し訳ないよな」と思ってたんです。だから、一時はどうにか東京で就職しなきゃと思って頑張ってたんですけど、本当に頑張れなくて。
 
━━はい。
 
宮谷:周りの子たちは、私がちょっと恐くなるくらいガツガツと前に出ていってたので、「私こんなにガツガツ前にいって、自分を主張しながら生きて、東京でずっと働いていけるのか?」っていうのが、すごく不安に感じちゃって。
それで、お母さんに泣きながら「本当にダメかもしれない」って話したら、「なんも、帰っておいでー」って言ってくれたんです。お父さんも「なしてよ、東京にいる必要ないべや」って。それを聞いて「よかった」と思って、函館に帰ることを決めました。
 
━━それは本当に救われる言葉ですね。それで、春からは函館で仕事を始めると。
 
宮谷:そうです! 元町にある『ヴィラ・コンコルディア』という、小さいホテルで働くことになりました。新卒の募集はしていなかったんですけど、お願いしたら面接してもらえることになって、運良く拾ってもらえたという感じです。
 
 

 
 
 
宮谷さんの話を聞いていて、「22歳のときの自分は、もっと見栄っ張りだったのではないか?」と思った。
 
彼女の言葉には、自分を大きく見せようとする虚栄や誇張といったものが少しも感じられない。人の意見に流されやすかったことや、自分が温室的な環境にいたこと、人間関係で辛い思いをしたことなどを包み隠さず言葉にできる芯の強さを感じた。
 
それに、大学で勉強する意義に悩み、自身の体験から学問の面白さや贅沢さに気付けたというのは、ちっとも「ぽけー」としてない。自分の問いに、自分なりの答えを導き出したのは、自分の頭で考えたことの動かぬ証拠だ。
 
宮谷さんはきっと、自分の頭で考えることに手を抜かない人なのだろう。だからこそ、彼女の言葉には地に足のついた力強さがある。
 
見栄っ張りだった22歳の自分は、聞こえのいい他人の言葉を借りて、それっぽいことを偉そうに言ってたような気がする。それがみっともないことだとは思ってなかったんだろうし、人からは見透かされないと考えていたんだろう。
 
15年前に戻って、空っぽの頭を引っ叩いてやりたい。
 
 
 
 
 
 
自分を突き動かす強い覚悟と前向きな姿勢
 
 
 
 
 
━━三浦さんが東京に行こうと思った理由は何だったんですか?
 
三浦:私はもう、高校を出たら東京に行くと決めてました。函館を出たかったし、父親が若い頃に東京で暮らしていたこともあって、高校を卒業したら外へ出るもんだと思っていて。
それこそ私も大学行く意味みたいなのをめちゃめちゃ考えてたんですけど、父親が税理士だという影響で、経営とかマーケティングに興味があったのと、お母さんからも「大学行った方がいいんじゃないの?」って言われたのもあって、東京の大学に行くことにしました。
 
━━当時、函館のことは、どんなふうに見ていましたか?
 
三浦:めっちゃ好きでしたよ。だけど、若いんだし、多分100歳まで生きるし、残りの80年間ずっと函館にいるのも嫌だしなって。このままずっと函館に留まって、この小さな街で終わるのは嫌だなと思ってたんです。ビッグになるのが夢だったので。
 
━━函館を出た動機はすごく対照的なんですね、ふたりは。
 
三浦・宮谷:そうですね。
 
━━実際に東京に出てきてからの暮らしはいかがでしたか?
 
三浦:最初は街に慣れるのに必死でしたね。私の学校は渋谷だったんですけど、すぐ気管支炎になっちゃって、身体的に合わないのかなとか思ったりしてました。
友貴奈とは、月に一度くらい会ってたんですけど、めちゃめちゃホームシックになってて、会うたびに「帰りたいよー」とか、「やっぱり東京向いてないわー」とか言ってたんですよ。だから、「私も向いてないかもしれないけど、そんなこと考えちゃおしまいだ!」と思って、自分を鼓舞してましたね。
 
宮谷:いや、本当に帰りたかったんですよ(笑)。
 
三浦:それに、私はひとり暮らしだったので、自分の世話をしないと生きていけないわけじゃないですか。親がやってくれていたことを全部自分でやるっていうのと、大学に慣れるっていうのと、また新しく友達を作らないといけないっていうのと色々あって、お金の補助はもらってたんですけど、自分で暮らしていくってことがこんなにも大変なことなのかと思いました。その時点で、東京へ出てきてよかったなと思いましたね。
 
━━そういう苦労をすると親のありがたみを感じますよね。
 
三浦:本当に! うちは仕送りを全部まとめてもらってたんですよ。その代わり、電気の契約手続きとか、ひとり暮らしに必要なことは自分でやりなさいよっていう家で。
 
━━はぁー。厳しさと同時に信頼を感じますね。可愛い子には苦労させろみたいな。
 
三浦:どうなんですかね。でも、うちのお母さんは、「18年間であなたに教えるべきことは全部教えてますから、あとはわからないことがあれば聞いてください」っていうスタンスで。
 
━━それは実家にいるときからですか?
 
三浦:いや、ひとり暮らしを始めることになってから言われました。
引越しのときは、お母さんと一緒に東京へ来たんです。私は片道切符、お母さんは往復切符で。それで、引越し作業が済んで、私がお母さんを東京駅まで送って行ったんですけど、改札の前で「じゃあね」って言ったときに、めっちゃもうこみ上げてきちゃって。「これで、私はひとりになるんだ」って思ったら、まず私が泣いちゃって、それを見たお母さんもめっちゃ泣いちゃって。
 
━━うんうん。
 
三浦:お母さんが、そんなに泣いてるのを見たのは初めてだったので、ちょっと心配だったんですよ。弟と妹がいるとはいえ、ちゃんとやっていけるかなって。
それで、「これからはまぁ、ひとり減ったし、お母さんの人生だから、ちゃんと楽しんでね!やりたいことやってね!」って手紙を書いたんです。
 
━━娘にそんな手紙をもらったら余計に泣きますね、僕だったら。
 
三浦:だけど、お母さんからは「手紙届いたよ」とか「読んだよ」っていう連絡が一切なくて。ちゃんと届いてるのか心配になって、妹に聞いてみたら「届いてるよ。読んで泣いてたよ」って。
 
━━やっぱり。
 
三浦:その後、しばらくしてお母さんから「私の人生だってことは、もうわかってるから。あなたに言われなくても」みたいな感じで電話がきて。なんか心配損じゃんみたいな(笑)。
そのときに「あなたの教育は18年で終わりましたから」ってことも言われて、「なんだ、元気かよ」とか思いながらも、若干寂しさもありました。
 
━━それは親の強がりですよ、きっと。
 
三浦:今年の春から妹が東京に来ることになったので、この前、お母さんと2人で東京に来たんですよ。そのときに、4年前、私が上京したときの話になって、お母さんは「やっぱりあのときは、自分にとって初めての子離れだし、どうしたらいいかわかんないこともいっぱいあって…」みたいなことを話してましたね。
母がお酒好きで、私も飲める年になってるから、一緒に飲みながら「いやぁ、懐かしいねー」とか言って。
 
━━それは、想像するからにいい酒だなぁー。
 
 

 
 
━━三浦さんは今年、卒業を保留するという道を選びました。これは、どういった理由だったのでしょう?
 
三浦:一番の理由は、自分の道を決め切れなかったということですね。
一応、就職活動はしていて、リノベーションと地域活性化を一緒にやってるような会社に内定をもらってたんですけど、「そこに飛び込むのって今じゃなきゃダメなの?」って思っちゃって。
 
━━何かやり残したことがあったんですか?
 
三浦:東京に来てから、モデルとかお芝居もやっていたんですけど、それを十分にやり切れてないって気持ちがあって。一緒にやってた人たちが活躍している姿を見て、悔しいと感じることも多かったので、自分はまだやりきれてないんだなって。要するに未練があったんです。
卒業しちゃったら、もう新卒というカードは使えなくなっちゃうので、それならもう1年学生をしながら、やり残したことをやり切りたいなと思って。
 
━━その決断に対して、ご両親はどういう反応だったんですか?
 
三浦:親は「あなたが決めたんなら、いいんじゃないですか」って。
 
━━理解のあるご両親なんですね。三浦さんは、函館に帰りたいという想いもあるんですか?
 
三浦:はい。だけど、今はまだ東京に対する未練があって、もうちょっと何かしら得てからじゃないと帰れないなって思ってます。それがお芝居やモデルの仕事なのか、他の何かなのかは、まだはっきりわかってないんですけど、私にとって東京は〝闘う場所〟であり、函館は〝のんびりする場所〟なんです。だから、私はまだ東京で揉まれて、闘うべきなのかなって。
それに、函館にいると家族との距離感が近くなるじゃないですか。そういう環境だと、自分が弱ってるのとかも伝わっちゃうと思うんですけど、そんな姿を見られるのも嫌なんです。
 
━━自分が弱っている姿を、家族に見られるのが?
 
三浦:はい。友貴奈は、辛いことや愚痴とかを母親に話したりできるんですけど、私はダメで。親への報告はいつも、「引っ越します」とか、「卒業できそうです」とか、「こういう道に進もうと思います」とか、自分で決めてからするんです。そっちの方が自分には合ってると思うから、これからもそうありたいなって。
 
 
 
 
真っ直ぐな視線やハキハキした話し方とは裏腹に、三浦さんの言葉の語尾には不安の色が見え隠れしている気がした。
 
「自分が弱っている姿を、家族に見られるのが嫌だ」という言葉が物語っているように、三浦さんは強い気持ちで自分を突き動かしていくタイプなのだろう。
 
そういう生き方には、きっと不安もつきまとう。だけど、彼女の言葉からはその不安をも背負っていくといった覚悟が感じられた。
 
それは、周囲に上手く頼れる宮谷さんとは好対照な生き方だなと思う。話せば話すほど、ふたりはお互いの強みと弱みを無意識に補完し合っている友達なんだなと感じずにはいられなかった。
 
一方で、三浦さんと宮谷さんに共通するのは〝包み隠さない姿勢〟だなとも思った。「自分が東京で得たいものが明確にはわからない」という状況を包み隠さず、取り繕うこともなく人に伝えられるのは、三浦さんの強さと素直さの表れだと思う。
 
 
 
 
 
どこまでも対照的で、唯一無二なふたり
 
 
 
 
 
━━函館に帰る側、東京に残る側として、それぞれ今後のビジョンを聞かせてください。
 
宮谷:私の目標は、ホテルの中で「あなたには何でも任せられます」って言われるくらいまで頑張って働いて、最終的には自分でお店を持ちたいなと思っています。
何のお店かは決まってないんですけど、自分の興味ってどこにいくのかなっていうのも楽しみで、きっといろんなことに興味を持つだろうから、まぁそのときがきたら決めようと思ってるんですけど。
 
━━宮谷さんのスタンスは本当にフラットというか、どこに向かうにしても自分の感覚を信用しているって感じがしますね。
 
宮谷:私は、まだ経験も知識もなく、「函館が大好き」っていうパッションしかないので、そのパッションは保ちつつ、経験や知識を身につけて、函館をちょっとでも活性化できるようなことができたらなって思っています。
「函館に面白い人いるね!」って思われる人になれたらいいなって。
 
━━そういう若い人がいるというのは、街にとってすごく心強いことだと思います。
 
 

 
 
三浦:私は、「ビッグになる」ってことを、小さい頃からずっと言ってて、未だにそう思っています。
 
━━「ビッグになる」というのは、「有名になる」ってことですか?
 
三浦:有名っていうか、影響力のある人になりたいなって。昔から訴えかけたいことがたくさんあって、何かひとつの道を極めるというより、自分が影響力をつけていった方が、いろんな方面に訴えかけられる力が得られるんじゃないかと思ってて。
正直、そのためにどんなことをするのかって問われても、まったく定まってないし、今はやりたいことがいっぱいありすぎて困ってるような状況なんですけど。
 
━━ひとつに絞りきれないというか。
 
三浦:そうなんです。だけど、最終的には、自分の足で仕事を取って、自分の手でお金を稼げるようになりたいと思っています。もしかしたら、その途中で結婚して、子どもができて中断するかもしれないし、おばあちゃんになってからそれが実現することになるかもしれないけど。
組織のルールとかに縛られずに、自分のやりたいように時間とか分量を決めながら、仕事ができるようになりたいなって。
 
 

 
 
━━最後に聞かせてもらいたいんですけど、宮谷さんは、東京に残るという三浦さんの決断や今後の展望を聞いて、どう思われました?
 
宮谷:どう思ったか…。んー、「菜らしいな」って感じはしますね。就活してる時期もよく会って話してたんですけど、何だろう…菜は、一筋縄ではいかないっていうか、このまま真っ直ぐ、新卒で働く感じではないだろうなって思っていたので、もう1年学生するって聞いたときも、「だろうね」って思いました。
「ビッグになる」っていうのも、菜は力を持ってると、私は思っています。小学生みたいなところがあるから、他の人よりは苦労しそうだけど、それでもすごく頑張って何かしてくれそうだなって私は思っています。だから、この決断は菜らしくて、私は好きです。「いいなー」って思います。
 
━━反対に、三浦さんは函館に帰るという宮谷さんを決断を、どのように受け止めていますか?
 
三浦:本当に、まったく友貴奈らしいなっていう感想しかないですね。今、話を聞いてて、「先に言われたな」って思ってたんですけど(笑)。
でもなんか、高校のときから、私は暴れん坊っていうか、やりたいことをワーってやって、友貴奈が付いてきてくれるみたいな感じだったんです。言ってみたら、私が攻め、友貴奈が守りみたいな関係性だと思ってて。私は東京で闘うけど、友貴奈はなんとなく函館を守ってくれてる感があって。
 
━━「函館を守ってくれてる感」かぁ。
 
三浦:函館に帰って、自分のペースで生きていくっていうのを決めたのは、すごく友貴奈らしいし、帰る場所を守ってくれるのはやっぱり友貴奈だなって感じがあって。
東京にいて会えなくなるというのが初めてなんで、不安はすごくあるんですけど、そういう決断をしてくれるお陰で、私も東京で頑張ろうと思うし。それも含めて、私たちらしいなって思います。だから、友貴奈には「ありがとう!」って感じですね。
 
━━いやぁ、いい友達だねー(泣)。
 
三浦:褒められた(笑)。
 
宮谷:褒められたね(笑)。
 
 
 
インタビューが終わった後、ふたりがよくおしゃべりをしていたという井の頭公園を歩きながら、宮谷さんにこっそりと質問を投げかけてみた。
 
「宮谷さんにとっての三浦さんって、どんな存在?」
 
少し考えたあと、宮谷さんは「なんだろう…家族、みたいな感じですかね」と答えてくれた。
 
それからまた、自分の頭から言葉を選び出すようにして、「家族って離れていても、その存在があるだけで心強いなって感じるじゃないですか。それを菜に対しても感じています。だから友達だし、家族だし、あんまりライバルと思ったことはないかな。同い年だけど、菜が長女、私は末っ子って感じです(笑)」と付け加えた。
 
同じ質問を三浦さんにもしてみると、間髪入れずに「高め合えるし、支え合えるし、その両方の役割を担ってくれる相手ですね」という答えが返ってきた。
 
続けて、「今日、友貴奈の話を聞いてて、私が思ってる以上に考えてるし、成長してるなと思いました。私は昔から、友貴奈のことをライバル視してたところもあるし、ああいう風になりたいなって憧れもあったので、彼女の成長を見せつけられると、自分も頑張らなきゃなって思いますね」と話すのを聞いて、ふたりは本当に対照的で、お互いを必要としている友達同士なんだなと思った。この先もずっと追いかけたくなるコンビだ。
 
 
地方から都市へ出てきた学生の普遍的な悩みや、別れを目前に控えた幼馴染同士の心境について聞くつもりが、気づけば若さというものと向き合うようなインタビューになった。
 
若さというのは年齢ではないという人もいるが、やはりある程度の年齢までしか言葉に宿らない瑞々しさというのがあると思う。それは、底知れぬ不安や、無邪気な明るさ、根拠のない自信などを多分に含んだ瑞々しさだ。
 
端から見たとき、その瑞々しさは青臭くも眩しい姿に映る。それは恥じたり、誇ったりするものでもなければ、失ったことを嘆くようなものでもない。人生のほんの一時期だけを彩る季節のようなものなのだと思う。
 
若さはかけがえのないものだが、それは人生も同じだ。決して若いとはいえなくなった自分が、今の歳になったからこそ伝えられるのは、そういうことなのかもしれない。
 
 
 

 
 
インタビューのような、エッセイのような、IN&OUTの初めての特集記事。いかがでしたでしょうか?
 
立場や世代を問わず、読んでくれた方たちの心に触れられる言葉や写真があったら嬉しいです。
 
我々はこれからも、自分たちも常に考えさせられる立場として取材をしていきたいなと思っています。