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青森県にある人口約2000人の小さな村に生まれ、大学進学を機に東京へ。そこで出会った函館出身の彼と結婚し、現在は函館で暮らす蒲生由紀子さん。2015年5月には第一子を出産し、環境も状況もあらゆる面で新しい生活が始まっています。函館にやってきてまだ1年にも満たない蒲生さんが、慣れない土地での苦労や発見、そして旦那さんとの馴れ初めなどを語ってくれました。

ー取材・文章:阿部 光平、撮影:妹尾 佳、イラスト:阿部 麻美



1学年14人の小学校から、東京の服飾大学へ


━━現在は函館在住ということですが、そもそものご出身はどちらですか?
蒲生:青森県東津軽郡の平舘村というところです。当時で人口が2000人ほどの小さな村でした。今は、近隣の村と合併して外ケ浜町という名前になっています。

━━小さな村ということは、やはり子どもの数も少なかったのでしょうか?
蒲生:そうですね。一応、村には小学校と中学校がひとつずつあったんですけど、1学年1クラスという感じでしたね。私のクラスは14人。他には2人だけという学年もありました。

━━そういう学校だと、部活動などはどのように行われているのでしょう? サッカー部や野球部のように、一定の人数が必要となる部活は成立しないような気がするのですが。
蒲生:そうですね。男子は野球部、女子はミニバスしかありませんでした。他の選択肢はなしですね(笑)。3年生か4年生で、小学校が合併した時に、ようやく吹奏楽部とかができたんです。私は、運動がまったくダメだったので、迷うことなく吹奏楽部に入部しました。

━━確かにミニバスしかないというのは、運動が苦手な女子にとっては、かなり辛い状況ですよね…。村に高校がないということは、進学する生徒は中学校卒業のタイミングで、みんな村を出ることになるんですか?
蒲生:青森市内までは車で1時間くらいの距離なので、村から通う人もいました。一応、電車もありましたし。あとは、青森市内で下宿する人もいましたね。

━━なるほど。村ではどんなことをして遊んでいたか覚えていますか? また、現在もそこで生活している同級生はどれくらいいるのでしょう?
蒲生:外で遊んでいたことしか覚えてないですね。運動が苦手なりに(笑)。海も山も近い環境だったので、基本的に外が遊び場でした。
今、どれくらいの同級生が残っているかはわかりませんが、私の知っている限りではひとりだけですね。村で唯一のペンションを経営しています。

━━蒲生さん自身も、中学卒業後は青森市内の高校に進学されたのですか?
蒲生:ちょうど中学卒業のタイミングで、青森市内へ引っ越すことになり、そこからは自転車で高校まで通っていました。

━━村から市へ出てきて、過ごし方は変化しましたか?
蒲生:そうですね。初めて村以外の友達ができたので、楽しかったです。前から音楽が好きだったんですけど、高校に入って初めて話が合う友達と出会いました。
高校では、市内に出てきてから知り合った人たちと、全員が女子のバンドを組んだりしてましたね。3年間、バンドばかりでした。

━━当時は卒業後の進路をどのように考えていましたか? そこまで情熱を傾けていたからには「バンドで食っていこう」という気持ちもあったのでしょうか?
蒲生:そういうのは全然ありませんでした。バンドは卒業と同時に解散したんですが、全員が東京に行ったので、変わらず仲はよかったです。

━━なぜ、仙台でも大阪でもなく、東京に行くことを決めたのでしょう?
蒲生:母親が30歳まで東京で暮らしていて、その話をよく聞いていたのと、兄も高校を出てから東京で暮らしていたので、なんとなく自分も東京に行くものだと思ってました。具体的に何かに憧れていたというわけではなかったですね。

━━東京へは進学で? それとも就職ですか?
蒲生:進学です。当時は音楽と服に興味があったので、4年間で服飾の勉強ができる杉野服飾大学という学校へ進みました。服に興味を持ったのも、母が毎月買っていたファッション誌の影響だと思います。




人生を変える〝ジャマイカン・スカ〟との出会い




━━小さな村で生まれ、青森市内で青春時代を過ごした18歳の少女にとって、東京の街はどのように見えましたか?
蒲生:あまり戸惑いとかはなかったです。高校生の頃から、東京には何度か遊びに来ていたので「やっと東京に住めたなぁ」って感じでした。

━━キャンパスライフはいかがでしたか?
蒲生:楽しかったですね。1、2年は服飾の基礎を学ぶために、パターンをひいたり、デザインをしたり、縫製なんかを勉強してて。3、4年では、テキスタイルデザインコースに進み、自分が染めた糸で布を織ったり、羊の毛からウールの糸を作ったりという作業をしていました。

━━学校以外では、どんな生活をしていましたか?
蒲生:課題とバイトの毎日でしたね。バイトはコンビニとか居酒屋、下着屋とかでも働いてました。家が下北だったので、遊ぶのは専らその辺りで、古着屋とかライブハウスなんかによく行ってました。

━━服飾のように、専門的な分野の学校に行った人は、勉強したことを活かすような仕事に就くのが一般的かと思いますが、蒲生さんは大学卒業後、どんな道に進んだのでしょう?
蒲生:私は就職せずに、イギリスに行きました。留学とか、そういうのではなく、ただ行ってみたいから行ったという感じです。バイトで貯めたお金で、半年くらいロンドンで生活してましたね。ビザは半年間有効だったんですけど、観光目的なのに帰国便のチケットが半年後というので怪しまれて、入国審査で何時間も揉めた記憶があります。さらに追い討ちをかけるように、預けた荷物が到着しなくって…。初日から泣いた思い出があります(笑)。

━━それは幸先の悪いスタートでしたね(笑)。そもそも、どうしてイギリスに行こうと思ったのですか?
蒲生:当時は、とにかくパンクが好きだったんです。音楽もファッションも。だから、本場で、そういうカルチャーに触れたいなぁと思って。
ロンドンでは特に仕事もしてなかったんですが、大学の知り合いのツテで、ファッションスクールのショーの手伝いなんかをしていました。ギャラは出ないけど、ごはんは出るみたいな感じの。昼間はそういうところの手伝いをして、夜は相変わらずライブに行ったりして遊んでました。

━━イギリスに行って、一番良かったと思うことは何ですか?
蒲生:たくさんありますけど、やっぱり色々な音楽に出会えたことですかね。特に大きかったのは、ジャマイカン・スカ(※1)に出会ったこと。これがなければ、日本に帰ってからの仕事や、もしかすると旦那さんとも出会えてなかったかもしれません。

━━と、言いますと?
蒲生:あるイベントでジャマイカン・スカが流れていたんです。すごくカッコイイなと思って、色々とレコードを買おうと思ったんですけど、当時イギリスは物価が高かったので、買えずじまいでした。
なので、日本に帰ってから買うつもりだったんですけど、知識も全然なくて何を買ったらいいのかわからなかったんです。どうしようかなぁと思ってた時に、『Or Glory』(※2)というお店のことが思い浮かびました。「あそこに行けば、詳しい人がいるはずだ!」って。

━━『Or Glory』のことは、どうやって知ったのですか?
蒲生:もともとは客として行っていて、お店がやってる音楽イベントのことも知ってました。「アパレルだし、テイストもイギリスっぽいし、それでスカ好きな人がいるとなれば最高だ!」と思って、帰国してからすぐに面接に行ったんです。その後、ありがたいことに働かせてもらえることになりました。

━━初めての社会人経験ですね! 実際の業務としては、どのようなことをしていたのでしょう?
蒲生:最初はバイトだったんですけど、販売をしていました。その後、社員になって、帽子のデザインを担当することになったんです。

━━そこで遂に、大学で学んだ知識と技術が活かせたんですね。
蒲生:いや、大学では帽子に関することは何ひとつ学んでいなかったんですよ(笑)。帽子と服飾って、似ているようだけどジャンル的には全然違っていて、苦労ばかりでしたね。ただ、素材に関する勉強はしていたので、その辺はとても役に立ちました。それこそ、ようやく親にも胸を張って言えるというか。「大学出してくれてありがとう! 役立ってるよ!」みたいな(笑)。

━━お父さんとお母さんも、娘をわざわざ東京の大学に出した甲斐がありましたね(笑)。
蒲生:私は今、『Voodoo Hats』というハットのリメイク業をやっているんですが、これができているのは、服飾の大学に進ませてくれた親と、帽子のデザインを経験させてくれたOr Gloryのお陰です。




東日本大震災、長期海外旅行、結婚、そして函館へ





━━さきほどの話で、ジャマイカン・スカに出会わなければ、仕事だけでなく旦那さんとも会っていなかったかもしれないとおっしゃってましたが、旦那さんとは、どのように出会ったのでしょうか?
蒲生:私が働いていたお店に、営業とか配達で来てたんですよ。洋服のお直し屋さんとして。

━━なるほど。つまり、イギリスでジャマイカン・スカを聞いて、Or Gloryで働いていなければ、彼とは出会っていなかったということですね。それは確かに、人生におけるとても重要な出会いですね。そこから結婚まではトントン拍子で?
蒲生:いや、かなり紆余曲折ありましたよ(笑)。当時、私は大きな失恋をしたばかりで、かなり落ち込んでいたんです。彼とは2人で飲みに行ったりするようにもなったんですが、まー、まだまだ元カレのことを引きずってて(笑)。でも、何回も会っているうちに、ある時「もう付き合ってもいいかな!」って思ったんですよねぇ(笑)。

━━女心を変えさせた彼の粘り勝ちですね(笑)。そこから結婚にいたるまでは、どのような日々を過ごしていたのでしょう?
蒲生:毎日のように飲み歩いてましたね(笑)。そのうちに同棲するようになって、直後に震災が起こりました。

━━3・11ですね。東京でもかなり大きな揺れがありました。当時、彼とはどんな話をしていましたか?
蒲生:交通網も麻痺して、買い占めとかも起こっている中で、「とりあえず、一緒に住んでてよかった」と思いました。
彼は出会った頃から「いつかは函館で自分の店をやりたい」と話していて、震災を境に移住を真剣に考えるようになりました。
それと同時に、今のうちに長期旅行に行こうという話になったんです。函館に帰って、仕事が始まったら、そんなに長い旅行にはいけないだろうということで。それで、2人でお金を貯めて、お世話になったOr Gloryも辞め、中南米をメインに半年ほどの旅行に出かけました。

━━旅の中で、何か印象的な出来事はありましたか?
蒲生:色々ありましたね。コロンビアでiPhoneをスられたとか、彼がネズミの丸揚げを食べて強烈な腹痛に襲われたとか、モロッコの宿でケンカしたとか…(笑)。で、帰国の前日にプロポーズを受けたんです。

━━それは、なかなか粋な計らいですね! 答えはもちろん…?
蒲生:「よろしくお願いします」と(笑)。それから1年間は、函館への移住に向けて、また2人でお金を貯めました。

━━旦那さんは、結婚する前から「いつかは函館で自分の店をやる」という目標を語ってたということですが、蒲生さん自身は、函館についてどのような印象を持っていましたか?
蒲生:小さい頃に何度か旅行で行ったことがあって、幼心に「青森から近いのに、すごい観光地だなぁ」と思ってました。活気があるし、楽しい街という印象です。

━━特に覚えている場所とかはありますか?
蒲生:スパビーチですね!

━━スパビーチ! 懐かしいっ(笑)。たしか、今はプールはなくなって、温泉施設だけになったような?
蒲生:そうなんですか? ショック…。

━━僕も今、久しぶりにその名前を思い出しました。楽しかったですよね、飛び込み台とかあって。それだけ函館に好印象を持たれていたということは、移住することにも抵抗はありませんでした?
蒲生:そうですね。函館にはポジティブなイメージがあったし、東京も10年くらい住んでいて、そろそろ他の場所で暮らしてみたいという気持ちもありました。

━━生まれ故郷である青森に戻りたいという願望はありましたか?
蒲生:あまりなかったですね。青森は好きだけど、村は不便だし、青森市内には3年しか住んでなかったので、そこまで思い入れもありませんでした。今は誰も住んでいないんですけど、村には生家が残っていて、今でも年に一度くらいは行ってます。たまに帰ると「いいなぁ」とも思うんですが、1週間くらいいると「ここで暮らすのは大変だなぁ」って気持ちになります。
そういう意味でも、函館は規模も環境も、ちょうどいいなと感じています。




初めて暮らす函館で感じた苦労と魅力





━━函館に引っ越してきて、まだ1年も経っていないとのことですが、実際に住んでみた感想はいかがですか?
蒲生:一番感じるのは、すごく気候がいいということですね。夏に来て、秋、冬、春と過ごしてきましたが、いつも快適です。位置的には青森よりも北なので、寒いのかと思いきや、函館の方が暖かいし、今年だけかもしれないけど雪も少なかったので。本当に一年中過ごしやすいですね。

━━小さい頃に遊びに来た時には〝観光地〟としての魅力を感じたということですが、〝生活の場〟として魅力的に感じる部分はありますか?
蒲生:物価は安いなと感じますね。スーパーとかに地元で採れた野菜を売っているコーナーとかもあって、新鮮だし、美味しいし、安くて助かります。
あと、来る前は、車がないと移動が不便だという環境が心配だったんですけど、慣れると車生活はいいなと感じています。混んでる電車に乗らなくて済むし、自分のペースで動けるというのはストレスがないですね。

━━反対に、東京と比べて函館は不便だと感じるところはありますか?
蒲生:送料ですね。やはり通販を使うことが多くなったんですけど、北海道って本州よりも送料が高かったりするじゃないですか。こっちに来る前は、欲しいものが売ってなくても通販で買えばいいやと思ってたんですけど、送料が高いのは想定外でした。

━━北海道と沖縄だけ送料別とか、けっこうありますもんね。実際に、函館では手に入らずに、仕方なく通販で買うものってありますか?
蒲生:パクチーですね(笑)。

━━えっ、パクチーって函館に売ってないんですか!?
蒲生:売ってないんですよ。飲み屋さんとかも、事前に注文しておかないと入荷されないと言ってました。パクチー好きなので、困ります(笑)。

━━それは知らなかった(笑)。確かに、実家でパクチーとか食べたことないかもしれないです。では、気を取り直して。函館に移り住み、家族が増えていく中で、今後はどのような暮らしをしていきたいですか?
蒲生:自分が田舎で育ったので、子育てするなら都会より、田舎がいいと思っていました。その方が、反骨精神とか育つかなと(笑)。函館は、私が育った村ほど田舎ではないけど、東京に比べるとゴチャゴチャしていないので、のんびり子育てするには良い環境だと思っています。豊かな自然を身近に感じながら生活していきたいですね。

━━まだまだ先の話になりますが、自分の子どもが函館を出たいと言ってきたら、どんなことを言ってあげたいですか?
蒲生:「絶対出た方がいい」と言います。私も田舎を出てみて、本当によかったと思っているので。

━━故郷を離れてからの約10年間の生活で得たものは何だと思っていますか?
蒲生:出会いですかね。ずっと青森にいたら、これだけ多くの人と出会うことなんて絶対にできませんでした。それは、今となっては何物にも替え難い、大切な財産です。
たくさんの人と出会い、話したことで、頭も柔らかくなったと思います。狭いところにいると、考え方とかも凝り固まってしまうので。
これからは函館に根を下ろし、新たな出会いを大切にしながら、家族と一緒に成長していければと思っています。











(※1)ジャマイカン・スカ
1950年代にジャマイカで発祥した音楽ジャンルのひとつ。2、4拍目を強調したリズムが特徴。


(※2)Or Glory
東京都渋谷区に本社を構えるアパレルブランド。UKファッションをベースに、独自の解釈を加えたアイテムを展開。音楽に精通したスタッフも多い。






ミスド

「東京ではたまに100円セールとかやってますけど、昔からある定番商品が普通に70円とかで売ってます。安い!」

神戸小麦館

「菓子パンとか惣菜パンとかが衝撃的に安い。しかも、美味しい。デパ地下とかだと200円を超えるパンが多いけど、ここは100円ちょっと。」

こがね

「高田高兵の坂の下にあるタコ焼き屋さん。生地にダシの味が効いてて、美味しすぎます!」