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函館の元町で焼き菓子店『ホタル』を経営する鈴木愛さん。保育園の先生やカフェスタッフなど、各地で様々な仕事をしていく中で、「失敗してもいいから、人生で一度は自分のお店を持ちたい」との想いが強くなり35歳で一念発起。念願だった自分のお店をオープンさせました。昨年は出産も経験し〝豊かさ〟に対して、より真摯に向き合うようになったという鈴木さんに、札幌や青森での生活や、函館の今について語っていただきました。

ー取材・文章:阿部 光平・妹尾 佳、撮影:妹尾 佳、イラスト:阿部 麻美



■今は無き母校の思い出


━━ご出身は恵山町とのことですが、はじめに幼少期のことについて教えて下さい。
鈴木:住んでいたのは恵山だったんですけど、生まれたのは函館の病院でした。恵山には病院がなかったので。

━━そうだったんですね。恵山町は2004年の12月から、函館市に編入されましたが、当時から人口は減少傾向にあったのでしょうか。
鈴木:そうですね。恵山の尻岸内小学校に通っていたんですけど、それまでは1学年2クラスだったのが、私の代から1学年1クラスになりました。今は他の学校と合併して『えさん小学校』という名前になっています。

━━最近はどこも合併の話が多いですね。中学はどちらへ進まれたのでしょう?
鈴木:尻岸内中ですね。ここも東光中学校と合併して、今は恵山中学校になっています。

━━母校がなくなるというのは寂しい体験ですよね。小中学校の頃、夢中になっていたことなどはありますか?
鈴木:部活ですかね。小学校はバドミントン少年団に入っていて、中学はバレー部でした。特に中学校のバレー部はすごく厳しくて、正月以外は休むことなく、毎日練習してました。むちゃくちゃ叩かれたりしながら(笑)。

━━今だったらすぐに「体罰だ!」なんて問題になりますけど、昔はけっこう手を上げるコーチとかいましたよね(笑)。
鈴木:全然いましたね(笑)。でも、そのおかげで弱かったチームが段々と強くなっていって、渡島大会で3位になりました。全道大会に出場できるのが2位までだったので、残念ながらあと一歩届かなかったんですけど…。とにかくもう部活三昧の生活でしたね。

━━まさに体育会系の青春という感じですね。バレーボールは高校でも続けたんですか?
鈴木:いや、逆にもうバレーはやりたくなくて(笑)。一応バドミントン部に入ってましたが、全然やる気がない感じでした。

━━燃え尽きちゃったんですかね(笑)。ちなみに高校はどちらへ?
鈴木:下宿をしながら西高校に通ってました。下宿先がすごく古い建物だったんですけど、伝統的な建築物で雰囲気はとても素敵だったのを覚えてます。

━━あの辺りは雰囲気のいい建物が多いですもんね。恵山から出てきてみて、函館の印象はどうでしたか?
鈴木:遊ぶところが多かったので楽しかったです。服が好きで、よくフリマとかに遊びに行ってました。自分で出店したりもしてましたね。




■数年おきに街と仕事が変わるという生活




━━高校卒業後は、どういった進路を選んだのでしょう?
鈴木:昔から保育園や小学校の先生になりたいという気持ちがあったので、両方の資格が取れる江別の北海道女子短期大学に進みました。ちなみにここも現在は北翔大学短期大学部という名称に変わっています(笑)。

━━母校がことごとく改称してるんですね(笑)。西高も陵北と合併するって噂もありますし。
鈴木:私のせいじゃないですよ(笑)。

━━キャンパスライフはいかがでしたか? 江別は札幌からも近いので、それこそ遊ぶ場所も多かったと思いますが。
鈴木:古着にハマっていて、よく札幌へ買い物に行ってました。まだ北海道を拠点にしていたタカアンドトシが、アルシュというデパートの前で「ライブやるので、チケット買いませんか?」とかやってて(笑)。お店もたくさんあったので、楽しかったです。

━━肝心の学業の方はどうでした?
鈴木:幼稚園教諭と小学校教諭の二種免許は無事に取れたんですけど、採用試験にはすべて落ちゃって…。結局は札幌にあるスポーツクラブでアルバイトをすることになりました。子どもにマット運動を教えたりする仕事です。
そこは、1年くらいで正社員になれるという話だったんですけど、急にダメになっちゃって…。バイトとして続けるのもどうかなと思ってたところに、母親から「恵山の保育園で臨時保育師を募集してるよ」という連絡があったんです。産休に入る先生の代わりという期限付きの募集で、6ヶ月だけだったんですけど、スポーツクラブでアルバイトしているよりいいなと思って、恵山に帰りました。

━━結果的には、念願だった保育園の先生になれたわけですね。
鈴木:そうなんですけど、半年後にはまた仕事を探さなきゃいけない状態で。いろいろ探しているときに、アメリカンシュガーという古着屋のスタッフ募集を見つけたんです。すぐに応募して、今度は函館で古着屋さんになりました(笑)。

━━仕事も住む場所も目まぐるしいですね(笑)。まったく異なる業種ですが、古着屋さんの仕事は楽しかったですか?
鈴木:それはもう楽しかったです。今、付き合いのある友達は、ほとんどがそのお店で知り合った人ですね。仕事も楽しかったし、何より人脈が広がりました。
だけど、2年くらいして店長が変わったあたりから、ちょっと雲行きが怪しくなってきて…。新しい店長と反りが合わなくて、度々ぶつかるようになったんです。そしたらある日、札幌から社長がやってきて、いきなりクビになりました。

━━えぇー! それはまた急な展開ですね。
鈴木:その日、私、車で事故ったんですよ。それでお店は休むことになったんですけど、事前に連絡もなく社長が来たみたいで。新しい店長と対立していたもう一人の女性スタッフと私が、一斉にクビだと。「もう明日からこなくていいから」みたいな感じで言われて…。事故るし、仕事はクビになるし、最悪な1日でした。

━━1日にそれだけ悪いことが起きるというのは、さすがに辛いですね…。ということはまた仕事探しですか?
鈴木:そうですね。まぁ、その辺りは不思議と運が良くて、私、仕事を辞めてもまたすぐに次の仕事が見つかるんですよ。いろんな仕事をしてきましたけど、働いていない期間というのはほとんどなくて。次は、市役所の臨時職員になりました。




■人生を変えた青森でのカフェ体験



━━様々な仕事や移住のお話が出てきましたが、現在経営されている焼き菓子店に繋がる要素がまだ見当たらないような気がするんですが?
鈴木:すいません(笑)。焼き菓子店をやろうと思ったのは、青森に移り住んだのがきっかけです。妹が住んでいたのもあって、青森にはよく遊びに行っていて、そこでカドリーユっていうすごく素敵な雑貨屋さんと出会ったんです。そのお店には、青森に行く度に寄ってたんですけど、ある時、スタッフを募集するという話を聞いて、迷わず応募しました。

━━それで青森に移住することになったと。
鈴木:いや、そこは落ちたんですよねー。だけど、社長の奥さんが「雑貨屋じゃないけど、同系列のカフェでもスタッフ募集してるよ」と言ってくれて。そこまでカフェに興味はなかったんですけど、市役所を辞めてそこで働いてみることにしたんです。

━━おぉ。ようやく飲食に繋がってきましたね!
鈴木:私、仕事でもなんでも基本的に飽きっぽいんですけど、カフェでは毎日野菜とか切ってても一向に飽きなくて。いろんな料理とか覚えていくし、すごく楽しかったんですよね。気がついたら5年近く働いてました。

━━5年! 最長記録ですね! そこまで長続きしたのは仕事内容のほかに、街が気に入ったという部分もあったんでしょうか?
鈴木:それは大いにありました。まず青森弁がすごくいいなと思って。あと、人がすごくフレンドリーなんですよ。函館よりもオープンな感じがしました。

━━そうなんですね。他にも函館との違いのようなものは感じましたか?
鈴木:素敵なカフェがあるというのが印象的でしたね。今でこそ函館でもカフェは増えているけど、当時はほとんどなかったので。青森はカフェがあっていいなぁと思っていました。

━━東京から流れてくる文化が函館よりも少し早く伝わっていたんですかね?
鈴木:そうかもしれないですね。雑貨にしても、洋服ブランドにしても、函館にはないものも多かったですし。街を歩いている人もおしゃれで、洗練されているように見えました。

━━それだけ大好きな街で、楽しい仕事をしていたにも関わらず、函館に戻ろうと思ったきっかけは何だったのでしょう?
鈴木:父親が体調を崩したんですよね。それと、カフェの状況とかも変わってきていて、いつの間にか自分が一番の古株になってたんです。たくさんのことを学ばせてもらったので、そろそろ自分でお店をやりたいなという気持ちもあって、青森を離れることにしました。そこからは、また函館の市役所や保育園で働いて、開店資金を貯めていった感じです。

━━本当に仕事が途切れないんですね(笑)。
鈴木:そういう運だけは本当に良いんですよ(笑)。




■景観の変容が物語る人々の需要の移り変わり





━━実際にお店をオープンするまでにはどういった経緯があったのでしょう? 元町を選んだ理由などもあれば教えて下さい。
鈴木:古着屋さんをやっていた頃にお客さんとして来てくれた方で、当時は東京に住んでいたんですけど「いつか函館で古着屋をやります」って人がいたんですよ。奥さんが函館の人だったので。その人が最初、大門でPOTOSというお店をオープンさせて、その後、元町にLIKESという古着屋さんを作ったんです。私は、お客さんとしてそこに通っていて、店の人とも仲良くさせてもらってたんですけど、ある時、そのご夫婦が石狩の方に引っ越すことになったんですよね。
ちょうどその頃、「私もいつか自分のお店持ちたいなぁ」なんて話をしてたら、そのご夫婦が「本当にやりなよ!」って背中を押してくれたんです。しかも、「自分たちは引っ越すから、この場所でやったら?」とまで言ってくれて。元町は昔から好きで、当時から「大人になったらここに住みたいなぁ」と思ってたし、お店を出すならここがいいなという気持ちもありました。
付き合っていた彼氏とも結婚の話が出ていた頃だったので、それを機にお店を始めよう決めました。「失敗してもいいから人生で一度は自分のお店を持とう」という気持ちでしたね。実現させなきゃ人生終われないなぁと。

━━お話を聞いてて思ったんですけど、「保育園の先生になりたい」とか「元町に住みたい」とか「自分のお店を持ちたい」とか、やりたいと思っていたことがことごとく実現してますよね。
鈴木:確かに! 言われてみたらそうですね。目標に向かって死に物狂いで努力しているという感じでもないんですけどね。ただただ人やタイミングに恵まれているんだと思います。

━━運も実力のうちですからね。では、約5年ぶりに函館へ戻ってきて、何か変化は感じる場面はありましたか?
鈴木:あんなにたくさんあった古着屋がなくなっていたのが印象的でした。ブームが去ったんだなと。人の多さや活気については、特に大きな変化は感じませんでしたね。青森とも大差がなかったですし。

━━青森にはあったけど、函館にないなと感じるものはありますか?
鈴木:昔ながらの良い喫茶店ですかね。青森から帰ってきてから函館の喫茶店巡りをしていたんですけど、あまりおいしいお店に出会えませんでした。青森には本当に美味しくて、雰囲気も抜群という古き良き喫茶店があるんですよね。

━━反対に青森にはなかったけど、函館にはあると思うものとかはあります?
鈴木:スープカレー屋さんですかね。食べ物ばかりで申し訳ないですけど(笑)。あとは、西部地区の雰囲気。異国情緒というか、そういった雰囲気が感じられる場所は青森にはありませんでした。

━━なるほど。総合的には今の函館に満足していますか?
鈴木:住みやすいし、食べ物も美味しくていいんですけど、物足りなさもありますね。例えば、金森倉庫の中とかは「どうにかしてください」と思います。昔は素敵なお店がいっぱいあったのに、今は「なんだかなぁ」って感じがして。他の街から友達が遊びに来ても連れて行きたいと思うほど魅力もないし、何より函館市民が行かない場所になってるのはもったいないなと。雰囲気はいいのに、面白くないんですよね。
駅前の景観も昔の方がずっとよかったと思います。今は、どこにでもある普通の地方都市の駅って感じがして、味気ないですね。

━━街の景観というのは、住人の需要を示している部分もあると思うんですよね。景観が変わっていくということは、人々の需要も変わっているということなのかなと。昔は路面に服屋さんとかが入っていて、路地裏にいい感じの居酒屋があるという感じでしたけど、今は表側にパチンコ屋や居酒屋チェーンが入り、服屋さんとかはひっそりと路地裏に佇んでいるという感じがします。ファッションやカルチャーよりも、お酒や娯楽に楽しみを見出す人が増えているのかなって気はしますね。
鈴木:洋服もCDもインターネットで買える時代になったっていうのもあるんでしょうね。うちのお店も、よく来てくれるのはどちらかといえば年齢層が上の方が多いです。元町周辺のカフェとかが話題になったときには、若い子がドッときたんですけど、それっきりってお客さんがほとんどでした。

━━確かに買い物に対する世代観というのもあるのかもしれませんね。では、最後にこれからの暮らしの展望を教えてください。
鈴木:春夏秋冬をちゃんと意識して生活できる人でありたいなと思っています。例えば春になったらちゃんと衣替えをして、春らしい服をきて、春においしいものを食べるという。そういう暮らしに〝豊かさ〟を感じます。お店では焼き菓子の他に、雑貨なども少し置いてあるんですけど、季節感は常に意識していますね。

━━東京とかと比べると、函館って四季がはっきりしてますからね。
鈴木:そうですね。春になったら桜が咲くし、夏は海で遊べる、秋には紅葉があって、冬は一面雪景色ですし。そういう移り変わりを大切にしながら、お店も自分の生活も楽しんでいきたいと思っています。






恵山

「小さい頃から見てきた景色です。登るというよりは眺めるのがメインですが、いつ見てもいい景色だなと感じます。」

やきとり家族

「電車道路沿いにある居酒屋。全部のメニューが美味しいし、おじさんとおばさんの雰囲気がとてもいいお店です。」

Cafe D'ici

「ロープウェイ乗り場の近くにある素敵なカフェです。お店がとても綺麗で、コーヒーやケーキも絶品です!」