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20歳で函館を出て、ワーキングホリデービザでオーストラリアへ。その後、6年半の東京生活を経て、函館に戻ってきたのが29歳の時。現在、家業である不動産会社に勤務し、地元で妻と娘の3人暮らしをする蒲生さん。函館、オーストラリア、東京と3つの地域に移り住みながら歩んできたこれまでの人生と、地元に根を下ろして暮らすと決めた今後の人生プランについて、お話を伺いました。

ー取材・文章:阿部 光平、撮影:妹尾 佳、イラスト:阿部 麻美



■空き家に新しい価値を与えるリノベーションプロジェクトと函館移住計画


━━まずは、現在のお仕事や生活についてお聞かせください。
蒲生:今は函館の青柳町で妻と娘と3人で暮らしています。仕事は、家業でもある『蒲生商事』という会社に勤めていて、不動産売買や、自社で所有している賃貸物件の管理等を行っています。

━━家業ということですが、蒲生さんは何代目に当たるのでしょうか?
蒲生:会社を立ち上げたのは祖父で、僕が後を継ぐことになれば3代目ですね。

━━いつ頃から今の仕事を始めたのでしょうか? また、やりがいを感じている部分なども教えてください。
蒲生:函館に帰ってきたのが2013年、自分が30歳になる年でした。最初は『ライフ企画』というグループ会社に勤務していたのですが、自社物件の管理を重点的に行うために移動しました。
そこで新たに始めたのが、築年数が古く、長期間空室になっている物件をリノベーションして貸し出そうというプロジェクトです。それも単に内装をきれいにするだけでなく、インテリア雑誌に出てくるような洗練された空間にすることで、新しい価値を見出そうというテーマを掲げて始めました。そのために、市内のアンティークショップと手を組んで、内装を一新。そこにアンティークショップの家具や雑貨を並べて、オープンルームを開催したんです。

━━少子高齢化による空き家の増加は、函館に限らず全国的な問題になってますよね。単にきれいにするだけでなく、まったく新しい空間にすることで付加価値をつけると。実際に、オープンルームを開催した反響はどうでしたか?
蒲生:正直いって、最初は自信がなかったんです。というのも、僕の知る限り、函館ではそういった前例がなかったので。宣伝広告費をあまりかけられなかったこともあって、大きな期待はしていませんでした。だけど、蓋を開けてみると、たくさんのお客さんが足を運んでくれたんです。SNS等で情報が拡散されて、予想以上に多くの方へ情報が届きました。
通常の入居者募集は、店舗やネットに情報を掲載して初めて人の目に触れるのですが、この時はオープンルームに来てくれた方がそのまま契約をしてくれました。フードスタイリストとして活躍する方で、料理教室のできるアトリエとして利用したいということでした。僕らとしても、そのような使い方をしてもらえるのは嬉しくて、リノベーションプロジェクトは今後とも続けていこうと思っています。

━━他にも何か新しい試みなどは予定していますか?
蒲生:今、進行中のプロジェクトで『函館移住計画』というのがあります。西部地区に住む建築家やデザイナーと一緒に『箱バル不動産』というチームを立ち上げ、古い空き家で移住体験をしてもらうというプロジェクトです。

━━そのプロジェクトは、どういった経緯で始められたのでしょう? 具体的な内容も教えてください。
蒲生:西部地区には昔ながらの街並みが残っているんですけど、同時に古い建物の取り壊しも進行しているんです。せっかく素敵な雰囲気の家なのに、入居者がいないことで取り壊されてしまうのはもったいないなと思っていて。もし有効活用できれば、街に人を呼び込むきっかけになるのではないかという想いで始めました。
具体的には〝海街暮らし〟、〝路地暮らし〟、〝坂道暮らし〟というテーマで3つの物件を用意し、そこで1週間の移住体験をしてもらうというものです。SNSなどを使って、函館への移住に興味を持たれている方を募集したところ、たくさんの応募をいただいて、9月3日から3組の方にお越しいただくことになりました。1週間という限られた期間ですが、実際に住んでもらうことで、函館の良さを体感してもらえればなぁと思っています。




■バンド漬けの青春




━━函館に帰ってきたのが30歳の時だったというお話でしたが、少し遡って函館を出る前のことについてお聞かせください。蒲生さんは、どんな少年時代を送っていたのでしょう?
蒲生:生まれたのは本通りで、小学校6年生までは本通小学校に通ってました。家を建てたのを機に青柳町に引っ越して、潮見中から東高校へと進学しました。小さい頃は、少年野球やサッカー、習字にエレクトーンと色んな習い事をしてましたね。体を動かしたり、何かを作ったりするのが好きな子どもでした。

━━当時、ハマっていたことや、特に情熱を注いでいたことはありますか?
蒲生:んー、音楽ですかね。エレキギターを買ってもらった友達がいて、それを見てバンドとかに興味を持つようになりました。一番印象に残っているのは、中学生の時に友達から貸してもらった『X JAPAN』の東京ドーム公演のビデオですね。初め見た時には「何これー! むちゃくちゃカッコイイ!」って感じで。それ以降、毎朝学校に行く前には必ずXのビデオを見てました。

━━一般的な家庭だと『めざましテレビ』とか見てる時間帯ですよね(笑)。その時間にXのライブを見るというのは、余程のハマりっぷりだったんですね。
蒲生:ですね(笑)。そうなるとやっぱり自分でも真似したくなるじゃないですか。それで、母親にねだってエレキギターを買ってもらったんです。母親も昔バンドをやっていたということもあってか、「興味があるならやらせてあげようか」という話になって、毎日かなり一生懸命練習しましたね。
そうなると、次にはバンドをやりたい気持ちが芽生えてきて。でも、中学生くらいで楽器できるやつって、結局ギターばっかりなんですよ(笑)。バンドでも花形的なポジションだし、けっこう始めやすいってのもあるし。だから、僕はドラムをやることにしたんです。XでもYOSHIKIがカッコイイなと思ってたし、ちょうどギターも上達しなくなっていたので。運良く、近所の福祉センターにタダで使えるドラムセットやアンプがあって、週末に友達と集まって練習してました。

━━その頃は、Xをはじめとする、いわゆるヴィジュアル系バンドの音楽を聴いていたんですか?
蒲生:Xとかも聞いてましたけど、それよりもパンクロックを聴いてましたね。オフスプリングとかNOFX、セックス・ピストルズ、ハイスタンダードとかですね。音楽的にカッコイイのはもちろんなんですけど、技術的にも小難しくなくて演奏しやすいんですよ、パンクロックって。
中学のバンドは受験勉強が忙しくなって自然消滅したんですけど、高校に入ってからも学校祭とかでバンドをやってました。その頃、函館にもパンクシーンみたいなものがあると知って、初めてライブハウスに行ったんです。生で見るパンクバンドは、とんでもなくカッコよくて、すぐに魅了されました。
最初の頃は憧れの対象だったんですけど、しばらくすると中学で一緒にバンドしていた連中がライブハウスに出演するようになったんです。その時は、なんというか、悔しい気持ちになりました。「俺もそっち側に行きたい」って。それで、高校でやっていたバンドを辞めて、ちょうどドラマーが抜けるバンドのとこへ行って「俺に叩かせてくれ!」って直談判したんです。

━━高校生らしい真っ直ぐさと情熱を感じるエピソードですね。それで加入が決まったと。実際に、ライブハウスに出演した時には、何を感じましたか?
蒲生:最初は緊張が大きかったんですが、すぐにものすごい快感に変わりました。それは、もう人生観が変わるほどのインパクトです。

━━発想として、バンドで飯を食っていこうという考えはありましたか?
蒲生:いや、当時はそんなに広い視野をもっていなくて、自分は一生、ここでバンドを続けていくんだと思ってました。この仲間達と、ずっとこういう人生を歩んでいくんだろうなって。そもそも、その頃好きだったのはアンダーグラウンドで活動しているバンドで、その人達もバンドだけでは飯を食えていないという現状がありました。高校生の自分としては、その事実自体が衝撃的でもあったんですが、それがかっこいいのかもしれないとか思ってました。自分も働きながら、バンドのために生きていこうと考えていましたね。

━━そういった生活の実情が、共感を呼ぶ歌詞になったりもしますからね。ちなみに、バンドではどのようなことを曲にしてたのでしょうか?
蒲生:まぁ、いわゆる社会への不満ってやつですかね(笑)。ただまぁ、10代のガキですからね。まだぜんぜん苦しいこととか経験したことないくせに、先輩達のやってることを真似してる感じでしたね(笑)。今思うと、ちょっと恥ずかしい部分もありますけど、未熟ながら自分達の想いを叫んでいました。




■函館からオーストラリア、そして東京へ



━━函館東高校は、いわゆる進学校ですが、卒業後はどのような道へ進んだのでしょうか?
蒲生:高校生の時にやってたバンドのメンバーは、みんな自分よりひとつ上だったのですが、メンバーの一人が函館の大学を辞めて札幌に行きたいということで解散になりました。僕も高校3年生になって進路を考える時期だったんですけど、「パンクロック=自立」とか「パンクロック=NO FUTURE」みたいに思ってて、大学へ行くことはなんだかカッコ悪いように思ってました(笑)。今は、全然そんなこと思っていませんけど。
それで親には進学せず、バイトしながらバンドすると伝えたんです。幸いなことに母親はすんなり認めてくれました。「自分の人生なんだから、自分で責任とてると思うならやりなさい。好きなように生きればいい」と。父親は「別に否定はしないけど、いつまでそんな生活を続けるつもりだ?」と渋い顔をしてましたね。「そんなことわかんないよ。やりたいと思う限りやり続ける」とか言ったのかな。最終的には、自分の意思を尊重してもらえました。

━━実際にはどんな生活を送っていましたか?
蒲生:新しいバンドをやりながら、朝はスーパーの品出し、夜は五稜郭のしゃぶしゃぶ屋でバイトをしてました。でも、始めて2年くらいでメンバー間の気持ちのズレみたいなのが出てきて、結局は解散に至りました。
ちょうどその頃、10代の時に出会った函館のパンクシーンの人たちが街を出て行くようになったんです。札幌や東京でバンドをするという人もいれば、バンドを辞めて就職するという人もいました。
10代の頃って、なんとなく「みんなずっとここにいるだろう」って思いがちじゃないですか。当時はローカルでやっていくことがかっこいいとも思ってたので。ただ、みんながいなくなるってなった時に、「自分は頑なに、ここで生活していて楽しいのか?」「本当は無理をしているんじゃないか?」というような自問自答を繰り返すようになりました。もし、自分で自分のことを函館に縛り付けているような部分があるのなら、それは良くないなと思って。それで、バンドを解散するタイミングで自分も函館を出ようと決めました。

━━その時には、函館を出て、どこで何をしようという明確なヴィジョンを持っていたのでしょうか?
蒲生:正直、函館を出るということが先行していて、明確な目標とかはなかったんです。行き先を決めたのも、ワーキングホリデーに行くことになった友人の影響でしたね。バンドばかりやってたので、そんな制度があることなんて知らなくて、「外国で暮らすって、すげぇ楽しそうじゃん!」というノリでした。単純に好奇心のみというか。

━━函館から一歩も出ずに、バンドばかりしていた人間が、いきなりオーストラリアへ行くというのはかなりの冒険ですよね。実際に行ってみた感想はどうでしたか?
蒲生:当時、僕は20歳くらいだったんですけど、まず札幌に出て、次に東京に出てって感じだと外国には一生たどり着かないなと思ってて。なので、勢いで行ってしまおうと。若さゆえの勢いですね(笑)。
行き先はシドニーに行ったんですけど、最初の3、4ヶ月は語学学校に通って、シェアハウスで生活してました。あとは、食料品をレストランに配達するバイトだったり、畑でネギを取る仕事とかをしてましたね。

━━オーストラリアでバンドをするつもりはなかったんですか?
蒲生:やる気満々で行ったんですけど、練習スタジオがなくて。日本ってスタジオで練習するのが当たり前なんですけど、聞いた話によるとオーストラリアってみんなガレージとかで練習するらしいんですよね。単に僕が見つけられなかっただけなのかもしれないんですけど。でも、オーストラリアで趣味の合う友達と出会って、帰国したらバンドしようぜという話になったんです。それで、帰国後は東京に行くことにしました。

━━相手は東京在住の人だったんですか?
蒲生:神奈川だったんですけど、首都圏のことを何も知らない田舎者の感覚としては神奈川も東京も同じ街くらいに思ってたので(笑)。とりあえず東京にいけばいいかって感じでした。

━━悪い意味でオーストラリア流のゆるさが染み付いてましたね(笑)。実際に住み始めた東京の街は、蒲生さんの目にどう映りましたか?
蒲生:函館とは、若い人の数が全然違うなと思いました。音楽でもファッションでも、かっこいいなと思う人とか場所にあふれているなぁと。
あと、函館にいた時は、自分は音楽の好みや、趣味の面で少数派なんだろうと思っていたんですけど、東京に出てみたら自分と同じような趣味や感覚を持っている人はゴロゴロいて、そんなのは幻想だったことに気づかされました。それが楽しくもあり、自分は特別ではなかったという寂しさもありましたね。

━━地方のコミュニティとは絶対数が違いますからね。東京でのバンド活動は充実していましたか?
蒲生:そうですね。派遣社員や配達ドライバーなどの仕事をしながら、バンドメインの生活を送っていました。別に東京でも「一発当ててやろう!」といった意気込みがあったわけではなく、ひたすら自分がカッコイイと思う音楽を追求していた感じですね。
もちろん、自分たちがやりたいことをやるだけで、誰もライブに来なくてもいいとは思っていたわけではなく、人に見てもらって、共感してもらいたいという気持ちはあったので、自主企画や告知なども積極的にやってました。




■10年ぶりに戻った函館の変化





━━東京でバンドを中心とする充実した生活を送っていたにも関わらず、30歳の時には函館へ戻ってきたわけですが、そこにはどういった理由があったのでしょう?
蒲生:一言でいえば、「自分が東京でやりたいと思っていたことがある程度達成された」からですかね。具体的にいえば、やはりバンドのことなんですけど、自分が思っているような曲が今までで一番しっかり作れて、それに共感してくれる人とも出会えて、音源も出せたので。
そもそも東京に特別な思いがあって出てきたわけではなく、気の合う仲間とバンドをするのが目的で東京に来たので、それが果たされれば十分だったんです。それに、僕の場合、函館を出るときから、いつかは函館に帰ろうと決めていました。やっぱり住むなら函館がいいと思っていたので。

━━そこには「いつかは家業を継ぐ」という意識があったのでしょうか?
蒲生:それはなかったです。親から「家を継いで欲しい」と言われたこともなかったですし。ただ、函館帰って仕事をどうするか考えた時、親の代で家業を終わらせることもないなとは思いました。そこで初めて、親に相談してみたんです。「函館に帰ってきたいんだけど、うちの会社で働かさてもらえないか」と。親からは「予定してなかったので、ずぐには無理だ」と言われましたが、その時点で帰るのは1年半後くらいのイメージだったので、「それなら何とかしてあげられる」という返事をもらいました。

━━今すぐではなく、「1年半後」という期間を決めていたのには、何か理由があったのですか?
蒲生:結婚しようと思ってて。そのために彼女とお金を貯めようという話をしていたんです。彼女とは僕が函館を出る前から付き合っていて、当時は東京で同棲していました。まぁ、その間には紆余曲折ありましたが(笑)。
それと、ケジメとして宅建くらいは取っておきたかったんです。

━━なるほど。彼女も函館出身というのは、地元に帰るという理由のひとつにもなりますよね。では、実際に約10年ぶりに函館で生活し始めて、どのような変化や印象を感じていますか?
蒲生:一番感じたのは、「函館ってやっぱ田舎だな」ということです。良くも悪くも。欲しいと思ったものがすぐに手に入らなかったり、そもそも欲しいと思えるものが少ないというか。
あとは、東京の人とは意識や考え方も大きくことなると思います。住む環境が違うので当然なんですけど、こっちに来てからは同世代の人と話す話題も変わりました。特に社会的な話をする機会は減りましたね。
10年前と比べて変わったなぁと思うのは、出歩いている人の数ですね。夜の五稜郭の人でなんかは、かなり減ったと感じます。

━━蒲生さん自身は、頻繁に飲みに出かけますか?
蒲生:減りましたね。子どもが生まれたのもありますし、周りも家庭を持ち始めたので、昔のようには誘えなくもなりました。

━━そこは大きなポイントだと思います。僕の身の回りでも函館在住の人は早く結婚しているし、東京と違って交通機関も遅くまで動いてないですからね。反対に、東京にはないけど函館にはあるといったものはありますか?
蒲生:まぁ、ありきたりですけど自然ですかね。すぐ近くに海があって、山もあるというのは函館の魅力だと思います。行きたいとこにはだいたい30分もあれば行けるという、サイズ感もいいですね。
キャンプ場をタダで使えるというのも嬉しいですね。東京近郊だとまず車を止めるのにお金がかかり、テントを張るにもお金がかかる。そういった意味では、アウトドアが身近な存在になります。
それと、新鮮な魚介類のおすそ分けとかも函館ならではですかね。「たくさんホタテもらったんだけど、せっかく刺身で食えるのを冷凍するのはもったいないから食べてー!」とか。ほんと嬉しいですよ。
文化としては、七夕ですね。子どもがお菓子をもらいに近所を回るやつ。あれって、自分があげる立場になってからも、いい文化だなぁと思います。

━━地方の魅力のひとつとして、「生活費が安く済む」というポイントがあるかと思いますが、その辺りの実感はいかがでしょう。
蒲生:確かに家賃とかが東京よりも安いのは確かです。一方で、冬場の暖房費、うちだったら灯油代など、北国だからこその出費もあります。一冬で考えると、灯油代はけっこうバカにできないですよ。

━━雪かきなど、生活するためにはやらなければいけない作業もありますしね。それでは最後に、函館に戻ってきて、家族を持ち、今後どのような生活をしていこうと思っているのかを教えてください。
蒲生:改めて、今の生活を振り返ってみると、親が近くにいるのがすごく大きいと感じます。本来、じいちゃんばあちゃんが近くにいて、孫の面倒を見てくれるというのは、とても自然な形なのかなと。それはお互いにとっていい環境だと思いますし。だから甘えられるところは甘えて、娘には十分にじいちゃんばあちゃんとの時間を過ごしてほしいです。それと、せっかく自然がある街なので、四季の魅力を感じられるような子に育って欲しいですね。
もし、娘が大きくなって函館を出たいと言ったら、背中を押してあげたいとも思います。自分自身、函館をでることで様々な経験ができたし、函館の魅力を再確認できたので。
僕個人としては、外で暮らしたという経験と視点を活かして、函館の内側から街の魅力を発信していきたいと思っています。今の仕事は、自分達が考えて行動しないと未来がありませんが、逆にいえば自分が考えたことが反映しやすい環境でもあるので、自分が夢中になれることや、自分自身のためのためにしたことが、結果的に街にとってもポジティブに作用していったらいいと思っています。






函館公園

「日常の散歩コース。春には花見でバーベキューもできるし、動物園や日本最古の観覧車がある遊園地まで併設されている。」

蕎麦蔵

「弥生町にある蕎麦屋さん。店の名前のとおり、蔵の中で食べられます。蕎麦はもちろん、時期によって変わるサイドメニューも絶品です。器のセンスも良いし、歌川広重の屏風を置いているのには驚きました。」

小泉のカキ氷

「旭町にあった伝説的な店。残念ながら、おばあちゃんが亡くなってから営業していないようですが、復活の願いを込めて。色々な地方でカキ氷は食べましたが、ここが一番でした。」