移動を続けながら感覚の鮮度を研ぎ澄ます
ファッションを軸にした自由でブレない生き方

高橋恵理さん(28)
 職業:編集者
出身地:函館
現住所:東京
 函館→ミラノ→東京

 
 
多くの女性が憧れるファッションの世界。遺愛高校からイタリア・ミラノのファッションスクールへと進み、現在は雑誌編集者として活躍する高橋恵里さんは、そんな女性たちの憧れを実現したひとりです。函館で撮影された映画『海炭市叙景』でのアシスタントを機に、東京でスタイリストの仕事に従事。その後、雑誌編集者として、様々なファッション誌やブランドカタログを手がけてきました。今は海外移住を考えているという高橋さんに、函館の思い出と今後の展望を語っていただきました。


取材・文章:阿部 光平、撮影:馬場 雄介、イラスト:阿部 麻美 公開日:2015年6月16日

 
 

 
 
 
 
 

ファッションを学びにミラノへ

 
━━高校卒業の後は、進路などで悩みましたか?
高橋:特に悩みませんでしたね。ミラノに行くという気持ちが固まっていたので。

━━イタリアですか。高校で勉強してきた英語の言語圏ではないですが、どんな目的があったのでしょう?
高橋:そもそも私がいたのは英語科だったので、留学する人が多かったんです。お互いが話して「じゃあ私も行こう!」みたいな感じではなく、「どうする?」「私はオーストラリア行くよ!」みたいな。
私はファッションを学びたかったんです。最初はロンドンとかニューヨークとかパリとか、いろんなファッション都市を考えていたんですけど、ロンドンは日本人が多いし、ニューヨークは危ないからダメだと親に言われ、パリもピンとこなくって。住みたいと思ったのが、ミラノだったんです。

━━では、高校を卒業してすぐミラノへ向かったんですか?
高橋:それが、親的にはやっぱり心配だったみたいで。行ったはいいけど「やっぱり嫌だった」とかで戻ってくるのは困りますって感じで。1年間、真剣に考えろって言われたんです。それでもどうしても行きたかったら、行ってもいいよと。なので、とりあえずイタリア語を勉強するために1年間東京の語学学校に通いました。

━━確かに18歳の娘をイタリアに出すのは心配でしょうね。東京に来たいという気持ちではなく、イタリア語を勉強できる環境が近くになかったから仕方がなく東京に来たという感じですか?
高橋:そうですね。できれば東京には来たくありませんでした。あまり好きになれなさそうな気がしたので。

━━それはどういった点で好きになれないと感じたのでしょう? 来る前は、東京にどんなイメージを抱いてましたか?
高橋:騒がしいって感じですね。あとは、みんなストレスを抱えて生きているってイメージがありました。東京に住んだら、それがうつっちゃいそうだなぁと思ってて。

━━実際に、来てみて感じた東京も同じような印象でしたか?
高橋:最初は良かったですね。好きな服を買いに行くのに、何時間も汽車に乗らなくて済むし(笑)。でも、あまり印象に残っていないということは、それほど楽しくなかったのかも。とにかく、早くイタリアに行きたいと思ってました。

━━その想いは果たされたのでしょうか?
高橋:そうですね。1年後には、ミラノのファションスクールに通うことになりました。最初は現地の語学学校に通って、その後、DOLCE & GABBANA(※1)のデザイナーが卒業した学校のスタイリングコースに入りました。

━━入学試験は大変でしたか?
高橋:試験はなくて、お金を払えば誰でも入れるというシステムでした。ただ、もちろん授業は全部イタリア語で、ついていけないと1年ごとに落第者が出るという環境です。

━━入学は簡単だけど、卒業するのが難しいというシステムですね。
高橋:実際、入った時には日本人も数人いたんですけど、3年後、卒業する時には私を含めて2人しか残っていませんでした。

━━スタイリストになるための学校というのは、具体的にそのような勉強をするのでしょうか?
高橋:向こうでいうスタイリストというのは、ファッションエディターと同じような感じで、雑誌をディレクションする授業がメインでした。なので、グラフィックデザインやカメラの勉強もしましたね。自分たちでモデルを探して、スタイリング・撮影して、1冊の雑誌を作るようなカリキュラムでした。

━━日本でいうスタイリストは、衣装屋さんから服を借りてきて、スタイリングをするというイメージですが、それとは少し違う感じですね。
高橋:そうですね。ファッション雑誌寄りの勉強でした。

━━なるほど。学校以外で、ミラノの3年間はいかがでしたか?
高橋:けっこう遊んでましたね(笑)。向こうでも、遊び方は日本とあまり変わらなくて、公園で飲んだり、クラブに行ったりとか、家でパーティしたりとかしてました。
 

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