東京では得られなかった
〝生活〟と〝仕事〟が直結した暮らし

谷藤崇司さん(31)
 職業:内装仕上工事業
出身地:函館
現住所:函館
 函館→札幌→東京→大阪→函館

 
 
函館工業高校を卒業後、札幌の専門学校、東京の会社を経て、13年ぶりに函館に戻ってきた谷藤崇司さん。地元で独立し、リフォームやリノベーションを中心とした内装業務を請け負う傍らで、友人の仕事や実家の農業を手伝う生活を送っているといいます。そうした暮らしについて、「仕事も、そうじゃない部分も、全部が生活の一部って感じで楽しいです」と語る谷藤さんは、移住してから「生活の細部にこだわりを持てるようになりました」と話してくれました。
建築やデザインについて学んでいく中で〝地域〟〝空間〟〝暮らし〟といったテーマを追求するようになったという谷藤さんに、函館での仕事や子育て、働く中で見つけた内装業の本質、おじいさんから受け継いだクラフトマンスピリッツ、さらには銭亀沢村長を目指す展望(?)などについて語っていただきました。

 
取材・文章:阿部 光平、撮影:妹尾 佳、イラスト:阿部 麻美 公開日:2016年3月11日

 
 

 
 
 
 
 

想像とのギャップに苦しんだ東京生活

 
━━早くから、地元である銭亀沢の生活に着目し、〝内と外を繋ぐ仕事〟というテーマを掲げていた谷藤さんが、就職先として東京を選んだ理由はなんだったのでしょうか。
谷藤:えーとですね、とりあえず東京に出たかったんですよ。なんか東京って面白そうだなーって思って。
 
━━それは仕事の内容とか、ハイレベルな技術を学びたいって意識よりも、東京という街そのものに興味があったっていう感じですか?
谷藤:そうですね。ただ遊びたくて行きました(笑)。
 
━━そうなんですね(笑)。当時、勤めていたのは、どういう会社だったんですか?
谷藤:最初に入社したのは、内装の設計と施工を請け負う会社でした。店舗や住宅のリフォーム、リノベーションとかを主にやるような。
「こういうカフェをやろうと思ってます」っていうクライアントさんがいて、お店のコンセプトとか、出すメニューとかを聞きながら、どういう空間にして、どんな家具を置いていくかっていう提案をするんです。そこから、見積もりを作って、現場の段取りもして、完成までを全部やるっていう仕事でした。
 
━━実際に、社会人として働いてみた感想はいかがでした?
谷藤:いやー、もう1年目からずっと辞めたいと思ってましたね(笑)。
 
━━思い描いてたのと、現実にギャップがあったってことですか?
谷藤:そうですね、現実は全然違いましたね。学校で勉強してる時って、テーマがあって、コンセプトがあってという〝デザイン〟の部分が中心だったんですけど、仕事ってなると、テーマとかコンセプトとかって、そこまで求められることがなくて。まず予算ありきで、それで収まるのかどうかってことばっかりだったんですよ。
それまでは、自分の頭の中で理想のかたちを描いて、それに向かって進めていくという練習をしてたんですけど、現実の仕事では「壁紙はこの中から選んでください」とか、「床材はこっから選んでください」っていう、デザインってよりも、どちらかというとコーディネート業に近い感じで。
しかも、実際に現場が始まると、ドロドロになりながらの肉体労働で、職人さんからは「掃除でもやっとけ!」みたいに怒られながらの毎日でした。当然、朝も早いし、夜も遅いしって状況で、当時はまだ仕事よりも、遊びたいって気持ちが強かったんで辛かったですね。
 
━━実際に、遊ぶ暇もないような生活だったんですか?
谷藤:遊んでましたよ。0時とかに仕事が終わって、飲みに行ったり。でも、その結果、朝寝坊したり、昼ずっと寝てたりとかして、よく怒られてましたね(笑)。
そういう感じで生活してたんですけど、3年目で大阪に移動になったんですよ。本社が大阪だったので、「ちょっと修行に行ってこい」みたいな感じで。そこで、ようやく仕事に楽しさを見出せるようになったんです。
 
━━大阪で、どういう気付きがあったのでしょう?
谷藤:東京で働いていたときは、経験を積むために、設計やデザインの業務よりも、現場監督の仕事が多かったんですけど、大阪時代の上司から「映画が好きなら、現場監督を映画監督だと思ってやってみなさい」って言われて、図面を脚本に、現場に合わせて職人さんを選ぶって作業をキャスティングに見立てて、現場ごとにチーム編成して、ひとつの作品を作り上げるって捉えてみたんです。そしたら、仕事が一気に楽しくなって。今までの経験が、点から線に繋がったような感覚でした。東京での辛い2年間がなかったら、その言葉を聞いても響かなかったと思うんですけど。
 
━━見方を変えただけで、感覚がガラッと変わったんですね。生活面ではいかがでしたか? 大阪ってけっこう文化的にも独特だと思うんですが。
谷藤:とにかく人が、ガツガツしてましたね。最初は、会う人みんなが怖かったです(笑)。ものをズバズバ言いますし。
でも、1年くらい経ってから、みんなすごく人情深い人達なんだなと思うようになりました。昼によく行ってた食堂で、毎回僕だけ白飯が大盛りの二倍くらいの量で出てきて、残したりすると「どないしたん?」って心配してくれたりするんですよね(笑)。
現場の職人さんも、僕がはっきりした考えを持っていないときは、ほんとに仕事してくれなかったり、「そんな仕事してたらあかんで」って怒られるんですけど、こっちが情熱を持って「こうしたい」、「こう作ってくれ」、「こう思うけど、どうだろうか」って風にぶつけていくと、向こうも、残業したりしながら 150%くらいの力を発揮して応えてくれるんですよ。
 
━━空気に流されず、しっかりと主張する人が多いんですかね。
谷藤:そういう印象ですね。あと、大阪でも訛りが役に立ったというか、 田舎から出てきた人間って感じで可愛がってもらえましたね(笑)。
 
 
 

 
 
━━札幌、東京、大阪と拠点を変える中でも、いつかは函館に帰るという気持ちはあったんですか?
谷藤:常に持ってました。
 
━━その想いが具体的な行動に繋がったのは、どんなタイミングだったのでしょうか?
谷藤:最初に就職した会社が倒産した時、取引先とか職人さんにお金を支払えない状態になってたんですよ。僕ら社員もまったく知らされてなかったんですけど。それで、当たり前なんですけど、すごく揉めちゃって。お金と人間関係のごたごたで、こんな経験するんだったら内装の仕事なんかやりたくないなって思ったんですよね。
それで1年くらいは、会社勤めじゃなく個人事業主として仕事をしてたんですけど、そんな時に既製品とかをなるべく使わないで、廃材だったり、古材だったりを使って、空間作りをするっていう会社に出会ったんです。
最初に働いた会社が何か割とオートマチックだったんですけど、そこはマニュアルチックで、お客さんの想像に近いものを作り上げていくって会社だったんですよ。社長さんが自分で家具とかを作っちゃうような人で、そういうの見てて「もっと空間って自由でいいんだよな」って思うようになって。最終的に、自分がやりたいのは、そういうスキルを活かした仕事だなと思ったので、その会社に入社させてもらったんですよ。
 
━━そこからまた内装の仕事と向き合うようになったんですね。
谷藤:そうです。その社長さんと出会ってなかったら、もう足を洗ってたかもしれないですね。
そこで、4年くらい仕事をさせてもらって、学んだ技術を基にそろそろ地元に帰って仕事したいなって思ったのが、帰ろうと思ったきっかけです。2015年の9月くらいのことでしたね。
 
━━その社長さんといい、札幌の時の親方といい、谷藤さんは、人生の重要なタイミングで信頼できる師匠みたいな方に出会ってるんですね。
谷藤:そうなんですよね。その都度、いい出会いがあって。
 
 
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