仕事と生活の中で気づかされた
〝雑誌のための料理〟と〝人のための料理〟の違い

近藤緑さん(37)
 職業:フードスタイリスト
出身地:乙部町
現住所:函館市・乙部町
 乙部→函館→東京→函館・乙部

 
 
函館市内にアトリエを構え、フードスタイリストとして料理教室やイベント出店を手がける近藤緑さん。中部高校から武蔵野美術大学に進学し、カフェと雑誌編集部でのアルバイトを経て、24歳の若さでフードスタイリストとしてデビューを果たしました。東京の第一線で活躍し、「本当は帰ってくるつもりはなくて、一生東京で暮らしていくと思ってたんです」と語る近藤さんが地元に戻ってきた経緯や、一度離れたからこそ気づいた函館のローカルな魅力、〝雑誌のための料理〟と〝目の前の人のための料理〟の違いなどを語っていただきました。

 
取材・文章:阿部 光平、撮影:妹尾 佳、イラスト:阿部 麻美 公開日:2015年12月11日

 
 

 
 
 
 
 
 

親の反対を押し切って美術大学へ

 

 
 
 
━━中学の時は、どんな生活をしていましたか?
近藤:小学校4年生の担任が美術に熱心な先生だったので、絵を描くのが好きだったんですよ。絵で賞をもらったりしてたので続けたかったんですけど、中学に美術部がなくて。なので、バスケ部に入りました。スラムダンクの影響もあって(笑)。
 
━━本当は絵が好きだけど部活もなかったし、スラムダンクに影響受けちゃったし、バスケやるかみたいな(笑)。乙部中のバスケ部は強かったんですか?
近藤:男子は体育の先生が顧問についていたので、まあまあ強かったんですけど、女子は全然やる気のないおじいちゃん先生が顧問だったので、とりあえずやってるって感じでした(笑)。
 
━━「全道大会目指すぞ!」っていうよりも、和気藹々と。
近藤:そうですね。放課後に集まって試合形式で遊ぶみたいな(笑)。その程度でした。
私の学年はけっこう荒れてて、周りはほぼヤンキーみたいな状態だったんですよ。気が付いたら、窓ガラス割れてるみたいな(笑)。そういうのもあって、私は全然学校で起こってることには興味は持てず、早くこの街を出たいと思ってました。
 
━━町自体に不満があるというよりは、ヤンキーが多かったりとかいう周囲の環境が不満だったんですか?
近藤:美術とかファッション雑誌を見るのが好きで、おしゃれに興味があったので、そういう環境に身を置きたいなと思ってましたね。当時の楽しみといえば、週末に函館へ買い物に行くことくらいでしたから。
 
━━中学生の時にはもう函館へ買い物に行ったりしてたんですか?
近藤:そうですね。乙部の人は今でも買い物っていうと、車で函館に出かけるってのがほとんどですね。
 
━━ファッションとかカルチャーに触れられるような場所って乙部にはなかったんですか?
近藤:なかったですね。一応、衣料品店もあることはあるけども、雑誌に出ているアイテムが買えるようなお店はなかったです。
 
━━若い子の好奇心を満たすお店はなかったんですね。
近藤:はい。だから、高校は函館に行こうと思ってました。
 
━━乙部では、中学卒業のタイミングで函館に出る子が多いんですか?
近藤:中学を卒業して、地元を離れる人は、多くてもクラスで2、3人ですね。
 
━━じゃあ結構少数派だったと?
近藤:そうですね。ほとんどは隣の江差高校に進学する感じでした。
まず校区が違うので、函館の高校に入れる人って校内の5%って決まってるんですよね。なので、それなりに勉強してる人じゃないと函館の高校には行けないっていうのがありました。学校が全体的に荒れていて、授業とかできない状態だったので、私はとにかく函館の高校に行くからと思ってひたすら勉強してましたね。
 
 

 
 
 
 

━━その結果、高校はどちらへ?
近藤:中部に行きました。私服の学校に行きたいって思ってて、中部を選んだっていう感じなんですけど。で、市内で下宿してました。
 
━━実際に乙部から出てきて、函館の学校に通った印象はどうでした?
近藤:今になれば「乙部と函館ってそんな変わらないじゃん」って思うんですけど、自分が田舎から出てきた人っていう劣等感みたいなのがあって「やたらなまってないだろうか?」とか、最初はすごく気にしてましたね。すぐに気にならなくなりましたけど。
 
━━求めていたファッションやカルチャー面での満足度はいかがでしたか?
近藤:楽しかったですね。中部は髪型にしても服装にしても特に制限がないんですよ。金髪の子とか、パーマかけてたり、ピアス開けてたりって子が普通にいましたし。
私は当時、親から仕送りをもらっていて、お昼ご飯代をなるべく抑えて、そこから捻出したお金で服とかを買ってましたね。
 
━━学校生活はどうでした?
近藤:高校の時は美術部に入りました。ほぼ幽霊部員でしたけど。
 
━━念願の美術部に入ったにも関わらず、ほとんど行かなかったんですか?
近藤:そうですね。部活は年に一回出品する展覧会があって、それに入選すると全道大会で札幌とかに行ける機会が得られたので、それだけのために年にひと作品仕上げるといった感じでした。
 
━━さらなる都会への憧れがあったんですかね?
近藤:そうですね。函館に出て、ゆくゆくは東京に行こうって気持ちは小さい頃から持ってました。何も娯楽がない中で雑誌とかを読んでた影響ですよね。だから函館に出てきたのは「第一関門クリア!」って感じでした。
 
━━当時は具体的に東京で何をしたいという目標はあったんですか? それとも、ただ単に東京という街に憧れていたのでしょうか?
近藤:目標というより、雑誌に載っているモノを買えるという環境に憧れてたんですよね。
東京に行くためには大学を受けなきゃって考えてたんですけど、本当はファッションとか美術に憧れがあるにも関わらず、親にはそういう気持ちを素直に言えなくて。なんとなくですけど、私、小学校、中学校の時に親からの期待を感じていて、お医者さんになるって言ってたんですよ。
 
━━それは本心ではなく、親の期待に沿うためですか?
近藤:そう言っておけば親も安心して喜んでくれるし、それで東京行けるしな、って思ってました。一方で、職業としてお医者さんになれば安定するしっていう考えもあって、半ば無理だと思いながらも一応は医療の道に進もうかなって気持ちもあったんです。
 
━━実際、医学部に進んだんですか?
近藤:高校2年生の時に仲のよかった友達が美大を受けるって言ってて、「あっ、いいな。素直に自分のやりたい道を突き詰められるってすごくいいな。私もそうしよう!」って急に方向転換して、親には内緒で美大を受ける道を探ってたんですよ。
それで、色々調べていくうちに、実技じゃなくて数学で受験できる美大があることを知って、「それだ!」と思って。デッサンとかちゃんと描いたこともなかったんですけど、それでもなんとか美大を受けることはできないかと考えていて。
 
━━数学だけの入試なんですか? 一科目試験?
近藤:一次試験は自分の得意な2教科を選べる学科試験で、二次試験が実技か数学か選択できるという形式でした。
 
━━変わった形式ですね。美大で、実技か数学かって。
近藤:そうなんですよね。「なんで数学なんだろう?」とか思ったんですけど、試験の内容を見たら、図形とか三次元のグラフとかの問題で、頭の中で空間を描けるかっていうテストだったんですね。「なるほど、こういうことか!」って。全然自信はなかったんですけど、運良く武蔵野美術大学に合格できました。
 
━━そこから親を説得しなきゃですよね?
近藤:そうです。すごい反対されました。しかも、いきなりだったので。
親からは、浪人して来年もう一度、教育大学か医学系の大学を受けてくれって言われたんですよね。
 
━━それを受けて、近藤さんはどういう判断を?
近藤:もう絶対に行くって。自分でも受からないだろうなーって思ってたのが、運良く受かったので、これを逃す手はないと思って。しかも東京にも行けるし。
合格したのは基礎デザイン学科で、教員免許は取れないんですけど、学芸院の免許は取得できるので、それは最低限取るっていう約束で許してもらいました。
 

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