函館出身者が集うカフェのオーナーが懐抱する
『故郷へ帰る』という揺るぎなき想い

齊藤亘胤 さん(41)
 職業:カフェオーナー
出身地:函館(北斗市)
現住所:東京
函館(北斗市)→東京

 

 
数多くの飲食店がひしめく東京・三軒茶屋で、カフェ『kirin』を経営する齊藤亘胤さん。函館直送の魚介類や、新鮮な野菜、さらには〝チャイニーズチキン〟から着想を得たというチキン南蛮が食べられるお店として、懐かしい味を求める函館出身者が数多く訪れています。
スポーツトレーナーを目指して日体大に進学するも、卒業時には役者を志すようになり、結婚後は飲食の道を歩き続けてきたという齊藤さん。紆余曲折を経て東京で自分のお店を持つに至った彼に、「幸せをダイレクトに感じられる」という飲食業の魅力や、病を患った父との初めての言い争い、家族と離れ離れになっても帰りたいという函館に対する強い想いなどを伺いました。

 
取材・文章:阿部 光平、撮影:馬場 雄介、イラスト:阿部 麻美 公開日:2016年6月24日

 
 

 
 
 
 
 

目立ちたがり屋の少年が目指した役者という道
 

━━ご出身は北斗市ということですが、小さい頃はどのような少年でしたか?
齊藤:浜分小学校に通ってたんですけど、とにかく目立ちたがり屋でした(笑)。学芸会だったら主役をやりたいし、運動会があれば段の上で体操をやるポジションをやりたいし、鼓笛隊の先頭で指揮をやりたいし。目立つために、児童会の会長に立候補したりもしてました。
 
━━目立つことにめちゃくちゃストイックな少年ですね(笑)。
齊藤:自分がやることに対して、みんながああだこうだ言ってくるのが楽しかったんです。笑うでも、批判するでもいいんですけど、自分がやって、みんながそれを見てるってのが、すごく楽しかったんですよね。
 
━━それはもう物心ついたときからですか?
齊藤:そうだと思います。僕、親戚が集まる会が大好きで、親戚が集まるとひとりでふざけまくってるような子どもだったんです。
しかも、なぜか芸達者なおじさん、おばさんが多かったんで、競ってコントとかやってくるんですよ。おじさん同士で、コントとかやってきて、それがすごい面白くて。子どもには考えつかないじゃないですか、コントなんて。だから、僕は踊るとか、ビールの泡をなめて酔っ払ったふりをするとかして、それを見た大人が笑ってる姿を見てるのが、嬉しいし、楽しかったんですよね。
 
━━家庭的にも賑やかだったんですね。その中で、目立ちたい自我がぐんぐん育っていったと。
齊藤:そうですね。小学校の文集には、コメディアンになるのが夢だって書いてました(笑)。
 
━━人を笑わすことが快感だったわけですね。その性格は、中学に入ってからも変わらず?
齊藤:中学生になってからも、何かの委員長とかあれば、とりあえず立候補してましたけど、それよりもバスケを一生懸命やってましたね。全然弱かったんですけど。
何ていうか、上達する方法がわからなかったんですよ。先生も教えてはくれるんですけど、そこまで熱心ではなかったので。走ったりとか、自分ができる練習ばかりしてた結果、ただ体力ばっかりついていって(笑)。体力はあるけど、技術はないみたいなバスケ少年でしたね。
 
━━「上達する方法がわからない」って感覚、わかる気がします。とにかく一生懸命やろうって気持ちはあるけど、何にどう取り組めば上手くなるのかわからないっていう。
齊藤:まさにそんな状態でした。高校は稜北に行ったんですけど、なぜかその年に限って函館選抜の面々がごっそり入ってきて、「あー、俺、楽しくバスケしたいのに、ダメだー。絶対ポジションねーわ」みたいな気持ちで 。だからって諦めるのも嫌なんで、とにかく気合だけで頑張ってましたね。先輩からは、「気合いだけ入ってるけど、上手くはねえぞ」みたいに見られてましたけど(笑)。
だけど、試合に出してもらえるようになって、しかもメンバーがいいからチームとしても強くて。それまで函館地区は有斗の独壇場だったんですけど、僕らの時は稜北が優勝して、最終的には僕自身も最後の国体で北海道の優秀選手になれたんですよ。2メートルクラスの選手を差し置いて、優秀選手に選んでもらえたってのは、自分でもすごく自信になりましたね。中学生のあのダメな頃から、よくぞそこまでいけたなって。
 
 

 
━━高校卒業後は、どのような進路に?
齊藤:スポーツトレーナーになりたくて、日体大に行きました。僕自身、怪我とかも多かったので、そういうのを診れて、わかる人になりたいなと思って。
一方で、当時から役者になりたいって気持ちもあったんですよね。
 
━━どんなきっかけで役者に憧れるようになったんですか?
齊藤:それも、目立ちたくてですね(笑)。アイドルにはなれないのは、自分でもわかってたけど、演技ならやれるんじゃないかなって。当時の田舎の少年にとって、目立つことの最高地点はテレビとか映画に出ることだったんですよ。「俺は映画のスターになるんだ」みたいなことを思ってました。映画ぜんぜん見てないくせに(笑)。
それで舞台の専門学校と、スポーツトレーナーの専門学校の資料を取り寄せたんですけど、ちょうどその頃、新幹線の路線を作るってことで、うちの土地が売れて、大学進学という選択肢もできたんです。親的には「4年生の大学に行けばつぶしがきくんじゃないか」ってことで、大学を進めてくれたので、そっちに進むことにしました。まぁ、日体大でつぶしがきくなんて聞いたことないんですけどね(笑)。
 
━━確かに(笑)。地元を離れることは楽しみでした? それとも寂しさの方が大きかったですか?
齊藤:寂しかったですねー。東京に興味はなかったですし、できることなら地元を離れたくなかったので。だから、大学が東京だからしょうがなく出て行くって感じでした。
 
━━東京に出てきてからの生活はいかがでした?
齊藤:もー、寮生活がとにかくキツくて。当時の日体大の寮って、ちょっと言えないようなレベルの過酷な環境だったんですよ。もう、緊張感のあまりずっと過呼吸寸前みたいな。全然休まらないっていう。今考えても、大学の最初の1年間は、人生で一番きつかった時期ですね。
日体大にいくくらいなんで、体力的には気を失うくらいキツくても大丈夫なんですよ。だけど、精神的にキツイってのが一番こたえるんですよね。連帯責任とか、そういうので追い込まれていくというか。
 
━━じゃあ、東京にいても街に出て遊ぶとかも全然ないという。
齊藤:そうですね。1年生のときは、ほぼ自由のない生活でしたね。バスケ部の場合は、土日も応援練習が義務付けられてたりして。朝なんて、太鼓で起きるんですよ(笑)。
 
━━えー。軍隊みたい(笑)。
齊藤:本当にそうなんです。太鼓が1分間鳴り響くんですけど、その間に整列してないと大変なことになるんで、どんな状況でもそこに辿り着かなきゃいけないみたいな。
昔、ラッセンの絵を売るエセ商法があったの知ってます? 僕、大学生の時、すげえ弱ってて、たまたま見たラッセンの絵が、七重浜から見る函館山にそっくりに見えちゃったんですよ。それ見て涙出ちゃって(笑)。そしたら、エセ商法のお姉さんが「この絵を見て、感じる方いるんですよね。わかります。」とか言ってきて、もう少しで買いそうになったんですよ(笑)。それくらい、当時は精神的に追い詰められていましたね。
 
━━ラッセンの絵(笑)。面白いけど、精神的な危うさが切実に感じられるエピソードですね(笑)。ちなみに、役者をやり始めたのは、いつ頃なんですか?
齊藤:大学4年のときですね。その頃には、スポーツトレーナーで食っていくことの難しさを知って、そっちの道に行こうという気持ちはなくなっていました。ただ、難しいから諦めたってよりは、役者の方に熱が奪われたって感じだったんですけど。
 
━━では、卒業後の進路として役者を目指したってことなんですね。
齊藤:そうです。教員採用試験も受けたんですけど、落ちたんですよ。それでもう「やっぱ教員じゃないんだな。役者の道でいけってことだな」って気持ちになって。親にその気持ちを伝えたら「じゃあ26歳くらいまではやってみろ」って言ってくれたので、そのまま演技の道に進んでいったんです。
 
━━それで、大学卒業後は劇団で役者をしながら、飲食で働いていたと。どうでしたか、体育系から演劇という全然違うフィールドに飛び込んでみた感想は?
齊藤:芝居はすごく楽しかったです。もともと人前で表現するっていうのは好きだったので。目立ちたいって気持ちは満たされるし(笑)。それでどんどんどんどん演劇にハマっていって。稽古をやってるだけでも楽しい日々でした。
今も、たまに CM のオーディションとか受けてるんですけど、そこで演技をするのも楽しいんですよ。もう、趣味として楽しいって感じなんですけど。
 
━━今もオーディションとか受けてるんですね。感覚的には趣味という意識ですか?
齊藤:そうですね。趣味って感じです。一応事務所には所属していて、マイナスにならないことだけは意識しながら、仕事の話を送ってもらっています。お店を休んで、交通費にしかならないような仕事だったら、オーディションの話は送ってこないでくださいって感じでマネージャーさんにお願いしてて。楽しいから、とにかく楽しさを求めてやってるって感じですね。
 
 
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